シャルル・トレネ(Charles Trenet)逝く
-フランスは”歌う道化師”(Fou Chantant)を失った-
2001年2月19日/パリ/Catherine Pouplain記者/http://www.rfimusique.com/
今度の5月18日に88回目の誕生日を迎えるはずであったシャルル・トレネが、今 夜、パリ郊外の病院にて発作によりこの世を去った。 親族の発表は「彼は星になって天に召されました」というものであった。 この陽気なアーティストは、彼のユーモアを糧にキャリアを築き、天真爛漫でシンプルでありながら、実はしっかりと構成をされた数々の歌を、一世紀にわたり歌いつづ け、フランスの国のモニュメントとなった。彼はセンチメンタルでありながら、決し て滑稽になるのない類まれな才能をもった詩人として、忘れられることはな いであろう。
1999年11月、シャルル・トレネにとってPleyelでの最後となったショー開催の数日 前、彼はこう発表した。「わたしのショーにきていただいた皆さんは、わたしの葬儀 に欠席してもよろしいですよ。」 これは、皮肉ではなく、シャルル・トレネのユーモアと死への恐れよりもずっと強い 人生そしてショーへの愛がよく現れている発言だ。
シャルル・トレネは、第一次世界大戦勃発直前の1913年、光溢れるフランス南部の Narbonneに生まれた。
公証人の息子であり、母親の秘蔵っ子であったトレネは優秀な生徒でもあり、その アーティスティックな感性に導かれるように17歳でパリに出た。
パリでは、映画関係の小さな仕事をしながら、ジャズを知り、詩や小説の執筆に燃え るとともに、その後 「Charles et Jonny」としてデュオを組むことになる、若きピア ニストJonny Hessと出会う。
彼らの音楽はアメリカの軽快なミュージカルや、ガーシュインのスイング、そしても ちろんのことジャズの影響を受けている。トレネの最初のヒットはPatheから出たレ コード『Quuad les beaux jours seront la, Sur le Yang Tse Kiang』であった。
1936年の軍事訓練の間に、トレネは将来シャンソンのクラシックとして残る有名な歌 の数々を作る。その一つがあの『Y’a d’la joie』で、これはCasino de Parisで Maurice Chevalierと作ったものである。プロデューサーのRaoul Bretonはトレネ をABCのステージに出させ、第二次大戦が始まる頃には、トレネはそのクールなスイ ングで、若者達のアイドルとなっていた。
その頃からトレネは立て続けにヒットを連発する。『Je Chante』(1937)、『la Route enchante』(1938)、『Boum』(1938)、『Mam’zell Clio』(1939)。
磨きに磨かれた歌詞、生き生きとしたメロディー、そして確かな構成力。トレネはシ ンガーソングライターとしての才能を如何なく発揮、『Debit de l’eau debit de lait』(1942)に見られるようにスイングをしながら自由自在に言葉を操った。
戦後には、トレネの評判はハリウッド、ブロードウエイまでおよび、ここでは『La Mer』(英語版はBeyond the Sea)というスマッシュヒットを飛ばした。
50年代になると、トレネは数多くのリサイタルを行うようになる。Teathre de l’Etoileでは51年、60年の2回、オリンピア劇場は54年と55年に、l’Alhambraでは58 年にリサイタルを行っている。
この時代には劇場の上のスターとなってしまったトレネが、新たにレコーディングを する機会はほとんどなくなっていたが、まだぽつぽつと『le Jardain extraordinaire』(1957)のような名曲が生まれている。
しかし、68年の芸暦30周年記念の際には5月革命のため、当初の予定であったBobino ではなく、パリの小さなキャバレーDon Camilloで祝うことになってしまった。そし て1971年、『Fidele』を発売、これが1975年に現役引退を発表するまでの最後のヒッ トとなった。その4年後の母の死は、トレネに大きな打撃をあたえ、半隠居生活を営 むまでになってしまった。
シャルル・トレネの長年のファンであったJacque Higelinは彼のカムバックのため に、情熱のすべてをかけ、1987年Printemps de Bourges大舞台にて、それは実現する ことになる。75歳のシャルル・トレネは一夜にして再びスターとしてよみがえり、フ ランス全土が、彼にひざまずき、祝福した。
88年のChatlet、89年および93年のPalais des Congre、 99年のPleyelでのコンサー トはまさに単なるコンサートを超えた”事件”となり、特に1994年L’Opera Bastile でのリサイタルで見せた彼のパフォーマンスは特別なもので、時の大統領フランソワ・ ミッテランなど各界重鎮が殺到するものとなった。
フェスティバル、ツアー、3つのアルバム(92年Mon coeur s’envole、95年Fais ta vie、99年 Les Poetes descendent dans la rue)のすべてを自ら手がけるシャルル・トレ ネの気力に満ち溢れた姿、その楽天主義と自らの老齢自体を冗談にしてしまうほどの 明るさは、プロデューサー、聴衆に大きな喜びを与えた。
その晩年、シャルル・トレネは、彼が83年に2度にわたり辞退をしたAcademie Francaiseの称号に代わる数々の賞、称号を得、(Legion d’Honneour, Gran Prix national des Arts et Lettres, Membre de L’Academie des Beaux-Arts)、フランス 文化の中で揺るぎない地位を得た。
また、同じに多作な作曲者である彼は、アーティストたちからも尊敬される存在でも あった。トレネの往年のファンであるGeorges BrassenからLudwigVan88(84年に 『Boum』をカバー)まで、数々のアーティストがトレネの曲をカバーし、その数は数 百に上る。
その中でも特に有名で、ミッテラン時代の象徴ともいえるのは、1986年のフランス/ アルジェリアのグループで、Pachid TahaがリーダーのCarte de Sejourによる 『Douce France』であろう。
また、1996年にJerome Savaryは舞台『Y’a d’la joie』にて、シャルル・トレネの やさしく、滑稽な人気曲の数々を取り上げ、この舞台は近年のシャルル・トレネへの オマージュのなかで最も心に残るものとなった。
歩行に障害がでており、最後の数ヶ月の疲労はかなりなものであったが、シャルル・ トレネが笑みを忘れることはなかった。シャルル・トレネの最後の舞台のポスターで は、彼は天使のように羽をつけ、霊妙な雰囲気が漂っている。 しかし、この青い目の夢見る道化師は、いつも陽気で、楽天的で、そして地に足がつ いていた。 そして、2000年10月25日、パリで行われたCharles Aznavourのコンサートのプレミ アが、シャルル・トレネが公に姿をあらわした最後となった。
シャルル・トレネが我々に残したもの、その喜びに満ち溢れた歌の世界、リズミック なメロディー、見事に操られた数々の歌詞はずっと我々の記憶に残りつづけるであろう。
”Longtemps, Longtemps, Longtemps/ Apres que les poetes ont disparu/Leurs chansons courent encre/Dans les rues” (詩人がいなくなった/そのずっとずっとずっと後になっても/彼らの歌は街角で流れ 続ける。)